妄想のはなし

何を書こうかとぼんやり考え、別に何も書く事は無いと手を下ろす。そんなことをしていたら、前回の記事からもうひと月も経つらしい。こうして何かを書き記すという行為は意外に疲れるものであり、取り掛かるのには勇気がいるものなのだ。仕方がない。ということにして、自分を許してやることにしよう。

今回は妄想について書いてみたいと思う。
妄想、妄想と聞いて何を思い浮かべるだろう。これは、もとは精神医学の用語らしい。ただ、日常的に使うときの意味はそう、例えばアニメや漫画などの二次創作、そのアイデアとか。いかがわしい空想だとか。そんな意味で使われることが多い気がする。
私はこの妄想というのが大好きで、小さい頃から非常に多くの冒険を繰り広げてきた。もちろん、その妄想の中で。あるときは名も知らぬ西洋の街で勇者の一行に加わったし、あるときは東洋の路地裏で娼婦になった。それらの妄想は大抵、なんの役にも立たないと思われがちだが、この妄想力ともいえるものに助けられることも何度かあったので今回はそれに言及してみたい。

先日、ツイッターにて私の楽しんでいるゲームが、ゲームシナリオのことで炎上している場面に出くわした。たしかに話題になったそのシナリオは、後半になるにつれて前半の伏線を回収しきれずに駆け足で進んでしまった、そんなようにも感じられた。そう感じた人が多かったのも事実なのだろう。そんなことを思いながらたくさんの人のツイートを見ている中で、「このシナリオは、私の解釈と違う。ショックだ、もうやめる」。そんな人をちらほら見かけた。
その時、私は言いしれぬ寂しさを感じた。
その人たちにとっては私の意見など理解したくないかもしれないが、どうしても寂しいと思ってしまった。だって、私達には妄想するという手段があるのに、それまで楽しんできたものを、1つの解釈の違いとやらで捨ててしまうのはあまりに悲しくはないだろうか。これは私がなかなかモノを捨てられない性分なのも関係しているのかもしれない。けれど、少し自分の意図に沿わないシナリオがあったからと、それまで楽しんできたコンテンツから離れてしまうのは、やはり、なんとも寂しいように思えるのだ。

実は以前、私にも同じ経験がある。私の場合は小説であった。シリーズ物の小説を数年かけて待っては読み、待っては読み、そして辿り着いた結末は全く私の意図しないものであった。私が好きだった登場人物は皆悲惨に命を落とし、当然こうなるだろうと想像していたシナリオはことごとく外れ、全く的はずれな…この場合、的外れであったのは私だが…そんな終わりが無慈悲に訪れてしまった。ページをめくるたびに暗澹とした思いに包まれていくのを感じながら、それでも一縷の望みをかけて最後まで読み切った私は、しばらく立ち直ることができなかった。あんまりだと思った。作者は人でなしだとさえ思った。しかし…しかし、それから一週間ほど経った頃、私はまたその小説を最初から最後まで読み直し…これは、これは当然ではあるが…これは作者のための作者の世界を表現したものであるとやっと気付いた。
当たり前のことであった。なぜなら、その小説を書いているのは私ではないのだから。
当然それは作者の世界だ。作者の頭の中に広がり、無限に今も広がり続け、もしくは次第に収束していくであろう彼または彼女の世界なのだ。私達はその世界の一部に、文字や絵や音楽などを通じて触れているだけに過ぎない。そう気付いたとき、もう私は作者を人でなしとは思わなかった。彼女は自分の頭の中にある世界を描ききったのだ。たとえその過程で、私の思っていたものと違うものがたくさん生まれたとしても。そして、たとえ私が思っていたものと違うものがたくさん生まれたとしても、私がその小説の登場人物を、世界を、雰囲気を、気に入って楽しんだということは変えようのない事実なのだ!

今、SNSが発達し、情報は光の速さであちこちを飛び交い、その中で人々は自分の求める、最も正確性の高い情報を選び取って生活していかなくてはならない。そんな中、多くの人々からの反響を得ている情報というのは目に入ってきやすいだろう。一人が「これは私の想像と違う!」と言い出せば、我も我もと、自分では言葉にできなかったもやもやを言葉にしてもらったとでもいうかのようにその発言は力を増していく。多くの人の同意の中で熱狂に浸るのは楽しいだろう。冷えた指先で小さな箱を叩けば熱に酔うことができるのだから。しかし、少しだけ待ってほしい。おそらく、その他人の「私の想像と違う」は、あなたの「私の想像と違う」とも違う。作者の描いた世界はあなたの想像とも違えば名も知らぬ誰かの想像した世界とも違うだろうが、あなたは少なくとも、作者の描いた世界の何かが気に入ったからこそ、そこまでその世界を楽しんだのではないだろうか。本当にその「想像と違う」という内容は、あなたが好きだった世界を後にするのに足るようなものなのだろうか。

そこで、ようやく。妄想の出番であろう。
この妄想、ハマってしまうととても楽しい。非常に面白い。絵が描けなくても、文章が書けなくてもできる。ただ頭があれば。
やり方は簡単だ。好きな世界観の中に、オリジナルの人物でも、そこにすでに登場した人物でも誰でもいい、動物でも植物でもいい、建物のような無機物でも構わない…それらを落とし込んで、それを自分のやりたいように動かすだけ。つまりは、人形遊びのようなものだ。二次創作と同じようなものだが、自分の頭の中だけで完結するのでいつでもどこでも簡単に好きな世界に浸ることができる。もし自分のお気に入りの登場人物が原作の中でとっくに死んでいたとしても、なんとでも理由をつけて街のどこかに居座らせてしまえばいい。思い通りの相手とくっつかなかった登場人物も、頭の中では誰と交際させようと自由だ。こんなことを言うと原作を大事にしろとかいう文句が飛んできそうだが、そこは仕方がない。人の頭の中までは誰も入り込めないのだから。それに、原作を大事に思っているからこそ、その妄想を頭の中だけでとどめておいているのだという言い訳もできる。なんにせよ、作者の頭の中から広がった世界をもとに、自分の中で新たな世界が広がったというだけのことだ。ちなみに、世界的に有名な作家たちの間では、自分の作品からインスピレーションを得たという他の作家の設定や世界観を気に入り、自分の作品にまた取り入れ、それをまた他の作家が気に入って取り入れ…というエピソードがいくつもある。それくらい楽しいものなのだ、これが。

今まで様々な創作物に触れてきたが、一つとして私の想像通りであったものはなかった。しかし、それらに触れて、自分の中で新しい世界を広げていくと、ふいに今度は原作に立ち返ってみたくなるときがある。そうすると、今度はそれまで見えていなかった素晴らしい点に改めて気付くことができたり、逆にもっと自分の想像と違ったというものを見つけたりする。それがまた、妄想の楽しいところだと思う。
好きなものから思い切って離れてしまう、ぽいとすぐに捨ててしまうのではなく、別の楽しみ方を試してから離れるか決めるのも悪くないのではないかと思う。それから、二次創作などに「想像と違う!」と声を上げて攻撃的になる人のことは私は全く理解できない。他人が自身で広げた広大な世界を前に、自分が広げた世界を比べて違うからと攻撃的になるのはあまりに愚かだ。そういう人は、自分の世界から出てこない方が双方にとっても良いと思う。

カウンセリングと私

私がカウンセリングに通って、3年と少し経った。体調と相談して、週一、または隔週で通い続けている。家庭の悩み、大学生活の悩み、人間関係の悩み、そして病気の悩みなど、様々な悩みをカウンセラーに吐き出して、解決策を探る手助けをしていただいている。日によっては、ただの雑談や愚痴になるときもあるが、このカウンセリング、大抵は非常に疲れるものだ。カウンセリングのあとに体調を崩したり、急に落ち込んで寝たきりのようになることもある。

今現在は大学のスクールカウンセラーのもとに通っているが、入学前は通院先の病院でカウンセリングを受けていた。初めてカウンセリングを受けたときは、何を話せばいいのかさっぱりわからずに、ひたすら下を向いて黙っていた。沈黙が恐ろしかった。その頃うつ病の症状がひどかったこともあって、何か発言しようものなら怒られるのではないかとさえ思っていた。結局、私はその病院のカウンセラーには重要なことは何一つ話すことができないまま、大学に入学した。
入学後、大学にもカウンセラーが常駐していると聞いて母に勧められるまま、再び私はカウンセリングを受けることになった。母は私に、「暗い考え方を矯正するため」とカウンセリングを受けることを何度も勧めてきていた。仕方なく私はまた、カウンセラーのもとへ通い始めた。
初めは雑談。今週何があったか。大学には慣れたか。何か困ったことはないか。
当たり障りのない回答のできる話題ばかりを選んで、カウンセリングの時間は過ぎていった。半年ほど経った頃、カウンセラーにも慣れてきた私は自分にカウンセリングは必要ないと思う、と正直に言うことにした。カウンセラーの女性は本当に優しげな方で、何を言っても怒られることはないだろうと私は考えたのだ。すると、彼女はそうは思わないと言って、これからもカウンセリングには続けて来てほしいと頼んできた。私はとても不満だったが、断ることもできずに引き下がった。
しばらくして、大学に通うことにも慣れてきた頃、急に体調を崩した。布団から起きられなくなり、講義に出ることはおろか人の声すらも不快になった。その後また外に出られるほど回復したとき、私はカウンセラーに、もうしんどくなりたくないと言った。カウンセラーは、メモを取りながらぽつぽつと私の話すとりとめのない愚痴を聞き、そういう話をもっと聞かせてほしいと言ってくれた。自分が苦しいと思う出来事について話すことは、非常に疲れたし大変だった。けれども、言語化するというのは不思議なもので、確かに大変だがそのあと少し楽になるのだ。頭では分かっていたが、いざ自分がそれをするとなると自分には他人に話すほどの苦しみなどないと、ためらってしまう。それから、私は少しずつ自分の中にため込まれていた苦しさやつらさを、他人に吐き出すようになった。
今、カウンセリングに行くと私は自分から話題を見つけられる。今週あった嬉しかったこと、楽しかったこと、できたこと、できなかったこと、苦しかったこと、嫌だったこと。ふと思い出したことがあれば、会話の途中にでも昔話を挟んでしまう。小さい頃に経験した嫌なこと。楽しかったこと。そうやって何でもいいから言葉にしていくうちに、なんとなく見えてくるものがあったりなかったり。そんなことを繰り返して、少しずつ少しずつ自分が何に困っているのか、何がしたいのか、何をすれば楽になるのかを探している。

カウンセリングを勧めると、大抵の人は尻込みすると思う。私も何人にも勧めたことがあるが、一度もいい返事が来たことはない。「人見知りだから」、「話すことがないから」、「話しても意味がないから」。お金の問題はなんともならないが、気持ちの問題なら、一度試してみたらいいのにと思っていたりする。私も最初、他人に自分の悩みを聞いてもらって何の意味があるのかと思っていた。そもそも、私は自分のことを誰かに話すのが苦手だった。相談を受けることは多くても、相談する側になることはあまりなかった。だが、一人で抱え込むのはつらい。苦しいのだ。溜め込んだ負の感情が行き場をなくしてどうしようもなくなる前に、吐き出さなくてはならない。
思うに、カウンセリングとは「膿を出す」作業なのではないか。どんどん溜め込まれていく負の感情は、やがて様々な出来事と混ざり合って複雑によどんでいく。それを繰り返して増えていった膿のようなよどみを、出口を作って外に出してやる。もちろん、出すときはめちゃくちゃ痛い。ニキビを潰すときもそうだ。化膿したところから膿を摘出するのも。擦りむいて出来た傷が膿んで、それを取り除かないと傷は治らない。けれどそれは、一度傷ついたところがまた痛むことをしなくてはならないということ。もう一度傷をえぐらなければならないということ。まあでも、膿を出してしまえばあとは傷の治りは早いだろう。ついでに運が良ければ、どうして膿んでしまったのか分かるかもしれない。

つらつらとまた私が思っただけのことを書いてみた。ここ最近体調が悪く、何もする気になれなかったのだが今日は体調が良かった。このまま上がり調子でいってくれればいいなあと思う。それと台風は月曜の朝に暴風警報を出してくれ。頼むぞ。
明日もいい日になるといい。

死にたいと言うこと

気持ちの浮き沈みが激しい。季節の変わり目は大抵そうなるが、何度経験しても嫌なものは嫌である。不愉快で、自分にはなんの落ち度もない、質の悪い病気に後ろから刺され続けているような時間。非常に鬱々とした気分だが、不思議と今日は言いたいことがあるので記事を書くことにした。普段は「死にたい」と思うほど落ち込んだら言葉も出てこないが、不思議なこともあるものだ。

死にたいと思う。ただひたすらにそう思っている時間がある。体全体がだるく、重く、何をするのにも体が鉛のように動かない。数歩歩くだけで頭がしびれ、座れば立ち上がれなくなり、楽しいはずのものが楽しくない。大好きな友人の声も不愉快で、視覚情報をうまく理解できない。周りの状況がわからずに不安でたまらない。攻撃的な他人の言動や、自分の無力感だけを増幅して感じる。
「死にたい」という気持ちの裏に何があるのか、こうして並べ立ててみたところで何も解決しない。結局、今自分が死にたいと感じているという事実があるだけだ。ただ、私は今までの経験から、この感情が永遠に続くわけではないということを知っている。病気に楽しみを一時的に奪われてはいるが、そのうちにまた取り返すことができる。そう自分に言い聞かせて生きる。

死にたいとツイッターで呟くと、非難されることがしばしばある。「本当に死にたいなら死ね」などの、匿名性を利用した攻撃的な返答を見かけることもある。もちろん、周囲からの注目を目当てに自分の命を利用する人間もいるのかもしれない。それはそれでしかるべき処置が必要だろうが、しかしたいていその「死にたい」は視線集めではないのではないだろうか。
体が動かず、楽しみがなくなり、暗い考えばかりが浮かぶ。その状態で、私は死にたいと言う。確かに死んでしまいたい。心も体も苦しいし、死んだほうが楽だと考える。が、それは今すぐ死ぬことと同義ではない。当然だが、「死にたい」と言うことと、今すぐに自殺してみせることは違うことなのだ。今は死にたい。しかし遠くない未来、私はまた死にたくなくなる。楽しいことを楽しいと感じられるようになり、友人と楽しく会話できるようになる。理解しているその事が、今の「死にたい」私を生かしている。だから私は死にたいけれどもう少し生きるだろうし、うまくいけばまた楽しみを見つけて生きられるようになる。
「死にたい」と言う人にはまだ何か、彼または彼女をこの世につなぎとめてくれるものがあるのだ。それはポジティブなものだけではないかもしれない。しかし、死にたいと言う人がまだそこで生きているということを私はただ事実として受け止めたい。その場からいなくなりたい、楽になりたいと思いながら生きている人に、追い打ちをかける人間にはなりたくない。「死にたいなら死ね」とは、病気だったり、環境だったり、そういうものに後ろからも前からも刺されて切られて傷だらけになった人間に、とどめを刺す言葉だ。攻撃的な言葉が、なんとかその人間をこの世につなぎとめていたものを上回る威力をもって放たれたとき、簡単に人は死ぬ。

「死にたい」と言うとき、私は場所と人を選ぶ。この言葉はあまりにも強いインパクトを持つため、日々の生活の中で口に出すと後々大変面倒なことになってしまう。死にたいのだから、先のことは考えられないだろうだって? そうではない。そうではないのだ、だからこの病気はたちが悪い。確かにあとのことを何も考えられないくらいに思考が働かないときもある。が、多くの場合はあとのことまで想像できてしまう。悪い方向に。話がそれた。
だから大抵はツイッターに書き込む。どこかに吐き出して、少しでも楽になりたいが現実世界では到底吐き出せない言葉として。ツイッターという場に自分の中から吐き出す事で少しだけ楽になり、それが私をこの世につなぎとめてくれることの一つだったりもする。死にたいけれどまだ生きていることを確認するためにも。しばらくして落ち着いて、自分が書き込んだことを見直すとそれが自信にもなる。あの時の「死にたい」気分を過ぎて、たしかに私は今楽しく生きている、と。これは推測でしかないのだが、そういう人は他にもいるのではないだろうか。死にたいという気持ちを吐き出したくても場所がなくて、なんとか吐き出しても良さそうな場所を見つけて吐露している人が。

私が言えることではないかもしれないが、どうか「死にたい」だけでなく「つらい」「苦しい」と言っている人を攻撃しないでほしい。助けろとは言わないから、何も言わずに放っておいてほしい。そういう人を救うのは医者やその他諸々の専門家だから、助けようとしなくてもいい。逆に、知識がない状態で助けようとすると共倒れになることも多い。かといって、「どうせ今度も死なないだろう」「そんなにつらくないだろう」と追い打ちをかけないでほしい。今はつらいときだし、死にたいときなのだ。自分でいつかはまた立ち上がるし、立ち上がれなくても収まるところに収まる。

私を含め、今「死にたい」人が少しでも楽になりますように。さあ、帰って寝てしまおう。

いずれ黒歴史になる記事

ポエミーなことを書く。そういう気分になったので。

昨日とても悲しかったことが、今日はそんなに悲しくない。無いと生きていけないと思ったものが、その他大勢の記憶とともに雑多に転がっている。
私は実に流動的で、ひとところにとどまることがない。悲しいと思えばつらく、苦しいと思えば楽しい。楽しいと思えば切なく、恥ずかしいと思えば嬉しい。
本当の自分なるものを探してさまようときは過ぎた。私に本当も嘘もなかったからである。真も偽もない。そこにあるのはただ私であった。弱く脆く、強く固い一人の人間。
昨日の私は死んだ。今日の私ももうすぐ死ぬ。しかし昨日の私は確かに生きているし、今日の私も明日確かに生きて明日の私に寄り添うだろう。死んでは生まれ、生まれては死ぬ。
明日の私が何を感じ、考えるのかという課題には、明日の私しか答えることができないだろう。今日の私は明日の主導権を握ることはない。
さようなら。今日の私は死んでしまう。さようなら。明日また会おう。また明日。さようなら。

進路の話、あるいは夢

トーキョーでの学会が無事に終了した。
あんなに楽しい場所があるとは、ついぞ知らなかった。なんということだ。溢れでる情報、情報、情報。専門家から直に、専門家自身が面白いと思っている情報を得ることのなんと楽しく、心躍ることか。私の知らない面白い研究がある、知らないことばかりでわからない単語ばかりで、それでも単語をメモして調べてもう一度聞き直してどんどん分かっていく。私がしてみたかったことが、身を置いてみたかった場所がそこにはあった。一日がすぎるのがあっという間だ。そして一日が終わると頭は破裂しそうなほどで、理解しきれなかった情報が氾濫を起こして口から飛び出してきそうであった。
夜、ホテルに戻れば仲間とひとしきり騒ぐことが出来た。酒を飲みつまみを貪りつつ、昼間の学会での話をしたり、テレビを見てなんでもない感想を言ったり、自分たちのハマっているゲームの話をしたりした。楽しすぎて頭がおかしくなりそうであった。こんなに楽しかったことを、私は知らない。自分の意思で、友達と会話をして笑うことの楽しさを、同じ部屋で寝泊まりしても気を遣うことのない関係を私は知らなかった。

さて、こんなに楽しかったのだから。私には大学院に行く素質があるのではと、確かに一度は考えた。しかし、3日間。学会という名目で私に与えられた3日間の猶予の中で、最後に私が出した答えは大学院への進学を諦めるというものであった。
ひとつ。単純に自信がない。
うつ病になってこのかた、真面目に勉学をしようと机に向かった試しがない。このような忍耐力と集中力と思考力で、まず試験のために勉強をする自信がない。
そしてひとつ。やりたいことが見つかったが、それは私の精神状態を考えると、不可能である。
学会で様々な発表を見聞きし、私のやりたい研究は動物の脳波などを用いた生理的な分野のものであると確信を得た。そして、そのための実験環境の見学もさせていただいた。実際に現在そういった研究を行っている方から、お話も聞いた。そして、無理だと気付いたのである。
私は動物が好きで、動物をどちらかといえば愛でたいタイプの人間だ。しかし、私がやっていきたい研究には、動物実験が欠かせない。動物の行動を観察したり、鳴き声や習性を解き明かしていきたいわけではないのだ。特定の刺激を与えられた動物が、どのような反応を示すか。脳のどの領域に信号が行くのか、どの神経細胞が発火するのか。そのためには、動物の頭に電極を取り付けたり、小さな小さな籠に入れて何日も何週間も行動を制限したり、餌や水を試験的に変えたりしなくてはならない。
おそらく、時間をかけて慣れれば。
私はそういった研究をする道に進めるかもしれない。だが、それまでに私の精神が保つかどうか。研究に必要不可欠な作業に慣れるまでに精神をすり減らす覚悟があるか。そう問いかけた時、私の心は決まった。

本当に私は恵まれている。そう思う。
進路を考えるという、自分のこれから進む道について悩むということに、これだけ時間を費やせたこと。そして、たくさんの人がそれを支えてくれたこと。どれだけ感謝してもしきれない。感謝をしたうえで、この答えを出すことができた。数年前に暗い部屋の中、死ぬか生きるかという選択すら病気に支配されていた自分からは想像もできなかったことだ。
これから、私は就職活動をしていくことになる。一応、説明会などの予約はしているがまだその程度。何もしていない。
なんの精神疾患もない人でも『病む』と噂の就職活動、現在進行形でうつ病の人間がどこまでできるか試してみるという気持ちでいる。なに、就職できなくても死ぬわけではない。いざとなったら、バイトやパートでなんとか食いつないでいこう。大学に居させてもらえるうちは、悪名高い就職活動とやらにせいを出して行こうと思う。
そして、私には夢ができた。本当に不思議な気持ちだ。あんなにしんどい思いをして、死にたいと何度も思ったのに、今になってまた夢ができるなんて。不思議なものだと思う。私の夢は、生き物と共に生活することだ。犬、猫、鳥、ハムスター、うさぎ、蛇、カエル、モルモット、魚、モモンガ……。保護施設やブリーダーから迎えて、その子達と生きてみたい。自分勝手な夢だが、私の手の届く範囲の命を守って、一緒に生きてみたいと思った。
今回の学会でも、これについて様々な情報を耳にした。動物の生体販売の残酷さ、日本の愛玩動物の流通経路や飼育環境に関する問題点。私には生理的な動物研究はできないけれど、何か他のことで力になりたい。そのためには何が必要かというと、金と情報。現実は優しくない。しかし、何か目標があるというのは、きっと働くことのモチベーションを上げることにつながる。

大層なことを長々と書いてみたが、本当に今はまだ夢物語である。だが大昔、それこそまだ一桁の年齢の頃に心に夢を描いていたときのワクワクする気持ちを久しぶりに感じている。これからどんなふうに私が生きていくのかは分からない。つらいことや苦しいこと、悲しいことやしんどいことはたくさんあるだろう。だが、たまにこんな気持ちが味わえるのなら。楽しくてたまらない、やりたいことが自分にはたくさんあるという、そんな気持ちになれるのならば。たとえ何種類も薬を飲んでいても、死にたくなる時があっても、もう少し生きていても良いかもしれないと思うのだ。
明日も良い日になるといい。

不安と希望と現実逃避

8月末に、教授の専門分野とその他の分野の学会が合わさった、合同学会なるものが開かれる。コンクリートジャングルトーキョーで開催される学会で、なんと私は同じゼミの同級生数人と一緒にポスター発表をさせてもらえることになった。教授が手を加えてくださるので4分の3ほど、いや5分の4ほどは教授の発表だ。しかし、教授に教えてもらいながらも一応は学生たちで研究の目的を理解して文字に起こし、データを取り、比較しやすいように処理をして考察をした。この作業で私の夏休みは消えたのである。
小学校中学校高校で、調べたことを発表する機会はあったが、学会という、なんというかアカデミックな……アカデミックで良いのだろうか、うまいこと修飾語が見つからないが……そんな場で何かを発表したことはもちろん無い。緊張で死んでしまうかもしれないと思っていたが、意外とそんなことはないものだ。開催まであと数日に迫った今も、予想よりはるかに落ち着いている。やはり少しは不安もあるが、夜眠れないほどでも、連日腹を下して家から出られないほどでもない。これはポスターの完成のめどがたったというのもあるし、メンバーが信頼できる人たちだからというのも理由の一つだろう。私の病気を知っても私と極めて「普通に」関わってくれる人たちだ。思えば、他人と出掛けるときは大抵緊張で腹を下す私だが彼女らとの用事の時は至って快便である。汚い? たしかに。

さて、今回実は初めて私は友人とのお泊りというものを体験する。学校行事を除いて、私は友達とそういった体験をしたことがない。お互いの家でお泊り会とか、誰々ちゃんのおうちでパジャマパーチーだとか、そういうことをしてみたかったのだが、してみたいと思える友達がいなかった。書いてみると悲しいものがある。しかし事実であるので仕方がない。
私が緊張しているのは学会よりむしろこちらのことであって、何を持っていけばいいかとか、部屋の中で話題が尽きたらどうすればいいかとか、夜は早く寝るのか遅くまで会話に花を咲かせるのかとか、考えればきりがない。もし友達とのお泊りについての注意点など知っている方がおられたら教えてほしい、当日までにしっかり頭に叩き込んでおこうと思う。だがなんというか、やはり楽しみだ。私は臆病なので、あまり先のことに期待してはいけないと普段は考えることが多いのだが、今回はとても楽しみにしている。友達と一晩過ごすというのはどういうことなのだろう。どんな話ができるだろうか。お菓子を買ってきて摘みながらダラダラと時間を過ごすのも良いかもしれない。早く寝なきゃと焦るのだろうか、それとも開き直ってお互いハイで明日頑張ろうぜ、となるのだろうか。

そんなこんなで夏休みは作業と、それからアルバイトとで過ぎていったのだが、ちょっとした時間や寝る前などにゲームをすることでだいぶ現実逃避とリフレッシュができたように思う。自宅で一人部屋のなかったときは、寝る前のゲームなどもってのほかで、スマホをいじればいじるほど同室の人間の機嫌が悪くなっていったものだが。今は何も気にすることなくのびのびと寝る前の心地よい時間を堪能することができる。本当は寝る前にスマホをいじるのは睡眠の質的に良くないと知っているのだが、まあ楽しいしあまり気にしなくていいか! と思ってしまうのである。このくらい適当な方が楽だ。
さあ、明日も大学に行くのだ、早く寝てしまおう。その前に布団の上でダラダラするのも忘れずに。
明日も気分良く生きられるといい。

しあわせな短い日記

8時頃起きて、朝食を適当にこしらえ、洗濯物を干し終えたらあとは自由。そんな日が週に2日ほど。バイトに行ったり大学で研究を進める日が殆どだが、それでも夏休みというものは精神的に大変楽である。なかなか思う存分遊ぶことはないが、それでも日々無理のない程度のタスクがあり、それらをこなせるだけの体力と気力があるということ。なんと幸せなことだろうか。

長らく、この世には何も楽しいことはなく、生きているより死んでしまった方が良いと考えていた。今もそう思うときはある。発作のようになんのきっかけもなく湧き上がる希死念慮に、自殺未遂をしたこともあった。
今、私は死にたいと思ってはいないが、そんな過去の自分を否定する気はない。死にたいと思った過去の気持ちは否定できず、疑いようのないものである。死にたかった。つらかった。苦しかった。何一つとして嘘偽りは無く、そこにあったのは確かな自分であった。無かったことにはできないし、しなくていいのではないだろうか。
その過去があって、今、幸せを感じているという私がある。
死にたいと思っていた時期を乗り越えたとは思っていない。ただ、死にたいと思っていた「時」が過ぎただけだ。私の心は予想以上に流動的で、様々な働きかけと時の流れによってその在り方をゆっくりと変えている。

腹を空かせて帰宅すると、私の分の夕食にラップがかかっていた。皆もう食べ終わったのだという。少し長めに風呂に入ったあと、お気に入りのゲームの実況動画を見ながら夕飯を頂いた。食事に風呂、温かい寝床。今日は一段とありがたく思える。
明日の朝食のため米をといでいると、なんだか幸せだなあと感じたので書いてみることにした。
明日も良い一日になるといい。