しあわせな短い日記

8時頃起きて、朝食を適当にこしらえ、洗濯物を干し終えたらあとは自由。そんな日が週に2日ほど。バイトに行ったり大学で研究を進める日が殆どだが、それでも夏休みというものは精神的に大変楽である。なかなか思う存分遊ぶことはないが、それでも日々無理のない程度のタスクがあり、それらをこなせるだけの体力と気力があるということ。なんと幸せなことだろうか。

長らく、この世には何も楽しいことはなく、生きているより死んでしまった方が良いと考えていた。今もそう思うときはある。発作のようになんのきっかけもなく湧き上がる希死念慮に、自殺未遂をしたこともあった。
今、私は死にたいと思ってはいないが、そんな過去の自分を否定する気はない。死にたいと思った過去の気持ちは否定できず、疑いようのないものである。死にたかった。つらかった。苦しかった。何一つとして嘘偽りは無く、そこにあったのは確かな自分であった。無かったことにはできないし、しなくていいのではないだろうか。
その過去があって、今、幸せを感じているという私がある。
死にたいと思っていた時期を乗り越えたとは思っていない。ただ、死にたいと思っていた「時」が過ぎただけだ。私の心は予想以上に流動的で、様々な働きかけと時の流れによってその在り方をゆっくりと変えている。

腹を空かせて帰宅すると、私の分の夕食にラップがかかっていた。皆もう食べ終わったのだという。少し長めに風呂に入ったあと、お気に入りのゲームの実況動画を見ながら夕飯を頂いた。食事に風呂、温かい寝床。今日は一段とありがたく思える。
明日の朝食のため米をといでいると、なんだか幸せだなあと感じたので書いてみることにした。
明日も良い一日になるといい。

猛暑

暑い。
ひたすらに暑い。
一歩外に出るだけで、満タンだった体力ゲージが赤点滅である。焼け付くアスファルト、水をかぶったようなサラリーマン、駅前で立ち尽くす私。世の中の平均女性より太り気味な私である。絵にするとしたらタイトルは「駅前で呆けるDEBU」。つらいものがある。
朝家を出る前にシャワーを浴びて制汗剤を振りかけ、汗拭きシートで拭き、しっかりタオルも持って出掛けて出先でもこまめに汗を拭き、汗拭きシートを使って、制汗剤を吹き付ける。それでも汗臭い。自分の体から立ち上る汗の香り。臭い。電車で隣に座るサラリーマン。汗臭い。もう汗まみれや。どうしようもない。
街ですれ違う美人からはいいにおいがする。おそらく彼女らのあとにトイレの個室に入ってもいいにおいがする。そういう人種なのだと思う。汗腺からいいにおいのする成分が出ているんじゃなかろうか。対して私はどれだけ気をつけていても汗臭い。つらいものがある。私もいいにおいを振りまいて歩きたいものだと香水をつけたが、汗の臭いと混ざって地獄であった。シャワーを浴びながら歩きたい。
この暑さ、もう電車の弱冷房車両にも乗ることは叶わない。たとえ腹を壊そうが、キンキンに冷えた空間に飛び込みたい。冷たい空間の中でアイスを貪りたい。動きたくない。
ちなみに私はただいま心療内科の待合室にいるわけだが、この待合室がまた弱冷房なのである。27、8度に設定してあるに違いない。つまりつらいのである。先ほどから胸元から汗の臭いが立ち上ってくる。勘弁してくれ。私が何をしたというんだ。汗腺という汗腺に消臭剤をぶち込みたい。むしろ消臭剤になりたい。芳香剤になりたい。
この狂気的な暑さの中、活動している人間全てに敬意を。疲れを感じたらすぐに休んで、自分の体と心を大切にして欲しい。普段の生活に必要なエネルギーに、この暑さに対応するためのエネルギーも余計に必要なのだから困りものだ。私も適切な量の薬に頼るなり、急速をしっかり取るなりして夏を乗り切りたいと思う。

短い日記

金曜日の夜、街を歩く人々の足元はどこかふわふわとしている。なぜか今日は闇の中、自己主張の激しいライトがあちこちで点滅して人々を呑み込んでいく。行く宛もなくゆっくり歩く街並みは、着飾った田舎娘が慣れないダンスを踊っているようで、今夜ばかりは拙い踊りに拍手が湧く。

上から2つボタンを外した男性が方を組んで笑い、腕を絡ませて目を細めた男女が何事かを話しながら風景に溶け込んでいった。蒸し暑いこの季節でも、陽が落ちて風が吹けば少しは過ごしやすいものだ。けたたましいクラクションの音もあまり気にならない。

みんな誰も彼も、週末には楽しい予定があるのだろうか。そんなことはない。おそらくそうではない。

愛想笑いで重たそうなバッグを手に、上司か同僚か、数人のスーツの男性とカラオケに入っていく女性。つまらなそうに騒ぐ集団の後ろを付いていくだけの男性。道路脇で乳母車のそばに立ち竦む老婆。

世界中の人が幸せになることはなく、望む未来に望む結末は訪れない。ただ、目の前に広がる景色が美しいと感じた瞬間があったという、その事実だけがいつまでも落ちているのだ。

ありふれた自分語り、友人について

私は、私は、私は。
どこまでいっても自分のことしか話をしないが、許してほしい。このブログでは、おそらく記事の9割が私による私のための私の自分語りである。
救いようがないと笑われるかもしれないが、自分なりに自分を整理する場所を設けて、それを誰かに少しでも見てもらいたいと思ってしまったのだ。私は私の承認欲求を肯定し、なるべく周囲に被害が少ない方法を選んだと考えている。

家族を除いたほぼすべての人に、うつ病のことを隠して生活している。信頼できる大学の教授と、片手に収まるだけの友人。私の病気を知っているのは彼ら、彼女らだけだ。
だが非常に幸運なことに、様々な人が私に声をかけてくれる。飲み会の誘い、休日のランチの誘い、講義をともに受けようという誘い。ありがたいことにここ最近、私はたくさんの人と接することが出来ている。それは素晴らしい友人のおかげでもあり、私が少しだけ自分の考え方を変えることができたためでもある……と、思っている。今回はそのことについて、まだ纏まらないながらも書いてみようと思う。

大学生になった4月。絶対に自分の病気は誰にも言うまいと私は決意していた。それまで不定期に行っていたリストカットをやめるためにカッターを親の前で捨て、薬もきちんと管理して容量を守って服用するようにした。私は、周りから“得体のしれない存在”だと思われることを恐れたのだ。
リストカットや、薬の過剰摂取による明らかな異常行動は、おそらくほとんどすべてのコミュニティで受け入れられない。多くの人々は、それらの行動に対して嫌悪感を抱くだろう。私はそういう意味での、敬称としての“メンヘラ”とは呼ばれたくなかった。私自身は、そういった行動に対する嫌悪感はあまり無い。むしろ、そういうコミュニティに所属してきたために、それらが個人的な理由によるもので、簡単に善悪を決めることができない行動だと考えている。話がそれた。
ともかくやめたのだ、周りに知れる自傷行為は。
そして、なるべく他に頼る手段を探した。
不定期に体調を崩すことが多いため、大学の講義に全て出られない可能性がある。その時にノートを借りることのできる人を作る。講義内容を教えてくれる人を作る。一緒に座らせてもらえる人を作る。大学に行きたいと思わせてくれる人を作る。嫌なやり方だと思ったが、自傷行為に頼らず病気を明かさず生活すると決めたため、なりふり構っていられなかった。出来るだけ多くの人に自分から声をかけに行った。いわゆる仲良しグループが出来上がってしまってからでは入っていけなくなってしまうと考え、入学初日から奔走した。一人でいて、なるべく優しそうで、教科書を机上に並べている人。笑顔とワントーン高い声を心掛けて、世間話を振った。世間話が出来るなら何か好きなことを尋ね、趣味の話を。相手の顔色を見ながら話を進めるのは、大変で疲れることだったが、仕方がないと割り切っていた。
やがて懸念していたことが起きた。どうにも体調が悪く、大学に通えない日が続いたのだ。私は頼れる限りの人を頼り、その間のノートを集めることにした。
病気を明かさない以上、他に大学に行かなかった理由が必要だ。「風邪」「サボり」「家庭の事情」など、どうしたものかと悩んだが結局「サボり」と言うことにした。周囲から「しっかりしている」と認識されると後々どうにもならなくなると思っており、最初から自分は適当な人間だと思ってもらった方がよほど気が楽だと考えた故の答えだった。もちろん、毎回サボりだと言うわけにもいかない。風邪をひいたという言い訳も混ぜて、なんとか不自然にならないように考えた。
都合よく他人を使うという罪悪感と、それでもそうしなければこの先やっていけないだろうという不安からガチガチに緊張して、私はそれまでに声をかけ、ラインの連絡先を交換した人々にひとりひとりメッセージを送った。返信を受け取るまでが不安で、動けずに布団の中でミノムシのようになりながらただただ祈っていた。だが一体何を心配しているんだと言うように、人々はとても好意的だった。ある人は私にサボりグセがつくのを心配してくれ、ある人は私の風邪を気遣ってくれた。代わりに出席しておくから、今度お菓子を奢れと言ってくれる人もいた。
今思えば当たり前だが。誰一人として、私を「厄介な精神疾患でも持っているんじゃないか」とか、「高い授業料を親に払ってもらっているのに生意気だ」とか、「サボるなんて甘えだ、やめてしまえ」とか。そういう言葉で糾弾することはなかった。私は自分を嫌い、コンプレックスを抱きすぎていたのかもしれない。他の人は、それほど私のことを嫌悪感丸出しにして気にしてはいないのだと、なんとなく感じ取った。
その時から、私は少しずつ変わっていったのだと思う。また、この頃から大学のスクールカウンセラーのもとに通い、自分のことを話す時間を設けるようになった。最初は親に言われて設けた時間だったが、一年経つ頃には自分でカウンセラーと予定を決めることができるようになった。このカウンセリングも、私の考えを変えるのに大きな影響を与えてくれた。自虐的な思考から解放され、他人と楽しく関わることができるようになるために、私は手探りで色々なことを試してみた。もちろん、精神的に余裕のあるときに。
例えば、意識して図々しくしてみた。
何でも引き受けすぎるとさんざんカウンセラーや医者に言われたので、意識して少し図々しく他人と関わることにした。が、難しかった。どうしたらいいかわからなかったのだ。会話の中で冗談めかして、ジュースを奢ってと頼んでみると、相手はおかしそうに笑ってくれた。不快にさせてしまったらどうしようと謝りかけたがこらえる。すると、次に顔を合わせたとき、今度は相手が同じことを冗談めかして私に言った。なんとも擽ったくて何でもないことなのに私は笑い、それはとても楽しかった。
例えば、意識して一緒に行動する相手を分散させてみた。
一人の人間に依存する傾向があると私はようやく自覚しはじめていた。一人に依存しきって関係を壊すことだけは避けたかったので、意識して関わる人を日々変えることにした。この人が全てで、この人以外はただの他人という、1か0かの人付き合いではだめだと思った。これは意外と簡単であった。講義ごとにともに受講する人が違ったからだ。しばらくすると、何か聞きたいことがあるときに気軽に聞ける人は予想以上に多くなっていた。そして意外なことに、私と遊びたいという人も出てきた。私は自己評価が非常に低かったので、断りたかったがせっかくの誘いだ。断るのは失礼にあたると、何回か応じさせていただいた。相手に合わせようと行動しながら遊ぶというのはやはり疲れたが、その中で、疲れるけれども一緒にいて楽しい人、疲れるだけで一緒にいても楽しくない人がいるということに気付く。これは大きな発見だった。他人と関わるということは、程度の差はあれど疲れるものなのだ。だが、相手との時間で得られるものが大きいということもある。このことに気付くことができたのは、本当に幸運であった。
と、色々と試してみて気付いたことがたくさんあった。
そして、私にとって大切なたくさんの発見の中でも、今の私を最も支えている発見が、「全てを受け入れてくれる人間はおらず、また他人の全てを受け入れる必要はない」というものだ。
十数年生きてきて、私にとっての絶対は長らく母であった。また、数年間はとある女性であった。私は彼女らの全てを受け入れ、全てを肯定し、全てに従わねばならないと思っていた。そうでなくては私は彼女らから見切りをつけられ、捨てられると思いこんでいたのである。何とも滑稽な話だと思うだろう。私もそう思う。そして、自分が相手の全てを受け入れるのだから、相手にも自分の全てを受け入れてほしい、そうでなくてはおかしいとも考えていた。自分勝手にも程があると思う。この考え方は、おそらく私の生まれ持った性質だけのせいではない。環境も要因の一つであろう。残念ながら私の生まれ持った性質と、育った環境とでは少しばかり相性が悪かったらしい。環境に恨みを持っているかと聞かれたら否定はできないが。
しかし、そうではないのである。聖人君子ならいざ知らず、私はただの人間であり、好きなものもあれば嫌いなものもある。自分の考えを持ち、許せないと思うものも当然あり、怒りや嫉妬、醜い感情も溢れんばかりに持っている。それは、殆どの人間において同じなのだ。
私がAさんを好きになったとしよう。私はAさんの明朗快活な性質を好きで大切だと思うが、それでもAさんの貧乏揺すりの癖はどうにも好きになれない。Bさんの優しくて真面目な性質を私は好ましく思っても、私にまでカバンの中の整理を強要してくるのは辞めてほしいと伝える。
全てを受け入れてくれる人を今望むのならば、それは素人にはもう荷が重いだろう。カウンセラーに頼むか、はたまた献身的なパートナーに頼むか。だが後者は難しいかもしれない。好きか、嫌いか、どちらかではない。全て好きになることも全て嫌いになることもない。おそらくは、その比重が大きいか、小さいかなのだ。もちろん、好ましいという比率が大きすぎたり、好ましくないという比率が大きすぎたりすることはある。そんなことは稀だと思うけれども。
こんな当たり前のことに、私は何年も気付くことができなかった。そして、それで良いのだということに気付くのにも時間がかかった。だが気付いたとき、なんとなく他人と関わるのが少しだけ、本当に少しだけだが楽になった気がした。

少しずつ、おそらく多くの人がすんなり無意識に理解していることを長い時間をかけて理解しながら、私は今日も他人と関わっている。傷つくことはもちろんある。私も気付かないところで他人を傷付けている。そんな時は、どこか吐き出せるところは無いかと探してみるのだ。適当に流して聞いてくれる人はいないだろうか、それともカウンセラーに演説をかましてみようかと。
手探りであれこれしているうちに、それでも私に声をかけ、また好意的に接してくれる人たちがいた。私はその人たちを友達と呼び、出来る限り健全に付き合っていけるようにと、今までの発見を頭の隅に置いてたまに思い出すようにしている。

つい最近、あんなに心に決めていたというのに、私は病気のことを友人に明かした。言い訳といえば聞こえのいい嘘をついて大学に通えないことを誤魔化す生活に、どうにも耐えられなくなったというのもある。そろそろ話さなければとも思っていたし、慎重にときと場所を選ぼうと考えていた。が、なんということはない。雑談をしていて、ポロっと。本当になんの気なしにポロっと、話してしまったのだ。あんなに隠していたかったことを、世間話のように。そして、それを聞いた友人も世間話をするように平然と相槌を打った。体調が悪いのはそういうことだったのね、と。それだけであった。私は言ってしまったあとで取り繕わなければと慌てた。私には精神疾患があるが、どうかこれまでどおり普通に接してほしい。体調が悪くなることもあるが、他の場面で必ず挽回するからと。友人たちはなんてことないように、私は私であるのだから接し方も変わらないし、今まで通りだと言ってくれた。そしてそれから今日に至るまで、私はなんの違和感もなくいつも通りの日々を送っている。いつの間にか私のことを受け入れてくれるようになっていた友人たちに感謝しつつ、私も友人たちのことを自分のペースで受け入れ、楽しく付き合っている。

好きと嫌いの比率、受け入れるか受け入れられないかの比率は、時間とそれまでの関係によっても変化するのかもしれない。一定の気遣いと感情の共有。他にもたくさんの要素が複雑に絡み合って人間関係を形成していく。
これまでに気付けたことを書いてみた。人と人との関わりは本当に複雑で難しく、正解など無いのだろう。何ともありふれた言葉だ。ありふれすぎていて気分が悪い。だがそう言うしかないのだ。ぼっち行動も楽しいが、他人との行動にも楽しみを見出だせる人間になっていきたい。なぜならその方が私が楽しいから。私が楽しむために、そして“誰か”も私と居て楽しめるようになりたいと思う。
では、このあたりで。

彼女との思い出語り

小さい頃から誰か特定の友達を作ることが苦手だった。特に女子とは全く話が合わず、見た目もかなり男よりだった私はたいてい近所の男子と登下校を共にし、また学校でもよくつるんでいたと思う。今考えれば、ゲーム禁止、パソコンも禁止、テレビも夜9時以降は禁止で友達と遊ぶときは目的と場所と時間を母親の満足のいくように答えられなければいけなかったのだから、話が合わないのも道理である。ついこの間まで私はゲーム機というものを持たなかった。マリオやポケモン、どうもり(おそらくこれはどうぶつの森の略称だと記憶しているが定かではない)、カービィサルゲッチュなど、当時やってみたいゲームはいくつもあった。しかし親に許してもらえず、お年玉で買うことも禁じられ、なかなか友人宅にも遊びに行けなかった私はついぞそういったものに縁がなかった。大学生になってバイト代を使えるようになったが、あの時やってみたかったゲームはもう新規では店頭に並んではおらず、中古を古本屋などで探すことになった。なんだかそれは少し寂しいことのように思えて、しかし私にはもうどうにもできないことなのである。
話がそれた。
何はともあれ小中学校と、私には女友達というものがほぼなかった。いま連絡を取れる人間もない。かろうじて数人の男子とはつながりがあるが、月に一回Lineするかしないかである。小・中学校時代、友達とどこどこに遊びに行く、なんていう女子が心底羨ましかったが私はそれを認めなかった。「こんな時期から子供同士で遊びに行って、将来が心配だ」「親は何を考えているんだ」という、私の親の声をそのまま自分の考えとした。だから当時は本気で、子供同士で遊園地やデパートに遊びに行く子たちを蔑んでいた。なんともおかしな話だ。羨ましいなら羨ましいと、その場で泣いて喚いていれば今の私とはまた違った道を歩んでいたのだろう。

どこか釈然としない気持ちを抱えながらも、同年代の同性の友人を作れずにいた私だったが、たった一人だけ友達と呼べた女性がいた。
読書が好きだという彼女とは小学生の時分に出会った。だんだん周囲とずれていく価値観に不安を覚えていた私にとって、彼女は救世主だった。読書という、とっつきにくい趣味でありながら活動的で、何でも自分で決めることができ、よく笑いよく怒りよく泣いた。
親に従うばかりで自分の意思を通すということがなかった私は、それから彼女にくっついて回るようになる。彼女がいいと言うことをし、彼女に禁止されることはやめた。少しだけ親に反抗できた。従うのが親から彼女に変わったのである。ころころ表情がよく変わる機嫌屋な人だったが、私の親もそうだったからあまり気にならなかった。彼女についていれば何でも上手くいく気がしたし、それまで特定の人間と長く関わったことがなかったから彼女と何でも一緒にするのは楽しかった。“普通の女の子”のように、トイレにも一緒に行き、毎日一緒に帰り、ちょっとしたことで絶交され、小さなメッセージカードで仲直りをした。たまに振り回されていると感じることもあったが、それを含めた日々が私には大切になっていった。
やがて彼女は私の交友関係を制限し、私はそれに従った。あの子と話すなと言われれば話さなくなった。また、帰り道でお互いのことを世界で何番目に大切かを毎日報告しあうようになった。私はいつでも彼女を一番好きで大切だと答えたかったが、彼女は「自分のことが一番キライで一番好き」と笑いながらいつも言った。私が彼女の一番でないのが悔しくて、たまに私も一番目を家族や自分にした。その時彼女がどんな顔をしていたのか、もう思い出せない。
中学に上がってからもあまり関係は変わらなかった。私は彼女に付き従い、二人は友達であるように振る舞った。何時頃からだったか、彼女は左の腕の内側に傷をこさえてくるようになった。手首のあたりには太い血管がある。子供心にそう思っていた私は酷く慌てて、どこで怪我をしたのか、誰かに酷いことをされたのかと聞いた。彼女は蠱惑的に笑って、自分でやったと囁いた。その時の衝撃は言葉では言い表せない。私はいつか彼女が死んでしまうのではないかと思ったが、彼女は自分が死なないために傷をつけるのだから大丈夫だと言った。私には意味がわからなかった。意味がわからなかったが、わからなければならないと思った。私は彼女の友達であるから。しかし、腕に傷を付ければ親にバレてしまう。私は足首にカッターをあてて、毎晩切る練習をした。彼女の赤黒く腫れた手首を思い出して、今夜もし彼女が死んでしまったらどうしようと泣きながら。だが私には皮一枚が精一杯で、血が出るほど切ることはできなかった。毎朝その事を彼女に懺悔し、彼女は柔らかく笑いながらそれでいいんだよと言ってくれた。
そのうち学校内でいじめがあって、彼女が標的にされた。原因は私だった。
彼女が所属していた部活の女の子たちがやって来て、私に一つ質問をしたことがある。たしか、その部活の部長の好きな人を私が知っていたことについて。部長の好きな人のことを、誰から聞いたかと尋ねられた。私はとっさのことで何も考えられなかった。正直に彼女に聞いたと答える。女の子たちは何やら頷きあったり呆れたように天を仰いでいた。そうしてから、私にありがとうと猫なで声で礼を行った。その時になって、私はとんでもないことをしてしまったことに気づいたのであった。
彼女は学校に来なくなった。彼女の部活の女の子たちが先生に呼び出された。私は毎日彼女のことを考えながら、その不安を誤魔化すために高校受験の勉強に没頭した。頭の中には両手首と腕を赤黒く染め、ニコニコと笑う彼女が常に居た。夢の中で彼女に笑いながら殺された回数は数え切れない。何度も幸せそうに笑いながら私は死んだ。ごめんなさい、ありがとうと吐き出しながら彼女に殺され、幸せに死ぬ夢を何度も何度も見た。もとから彼女が周囲から浮きはじめていたことには気付いていた。だが私は彼女に嫌われたくなくてどこまでも彼女を肯定した。彼女を失えば自分の半分がなくなってしまうような、まるで彼女と私がひとつであるような錯覚まであった。であったのに、私が彼女を傷つけるきっかけを作ってしまったのである。
中学3年の秋ごろだったか、夏だったか。私は限界を迎えた。
みっともなく親の前で泣き叫び、助けてくれ彼女が死んでしまうと縋った。私のせいで彼女が死ぬ、彼女を殺してしまう、お母さんが彼女をよく思っていないのは知っているけど助けてほしいと懇願した。ただならぬ様子に気づいた母がスクールカウンセラーや担任に連絡を取り、私はカウンセリングを受けることになった。彼女もそうであったらしい。
小学生の頃からそれまでのことをカウンセラーに吐き出しきると、カウンセラーはすぐに彼女と離れるよう私に命じた。母はホッとしたように頷き、私も頷いた。もう何も考えられなかった。彼女が大切だという気持ちと、もう疲れた、限界だという気持ち。そして高校受験がすぐにやってきたことで、私はその忙しさに全ての記憶を思い出さないようにと押し込めることになる。
卒業式の日。
彼女は私の知っている笑顔で桜の下に立っていた。同じ部活の子たちと楽しそうに談笑していて、私は彼女の腕を確認するのを忘れた。
最後に教室に集まって、友達の卒業アルバムに各々メッセージを綴った。私はぼーっと、自分の部活の子たちとメッセージを書き込み合っていた。すると、うしろから肩を叩く人がある。振り返ると、同じ部活の子に付き添われながらアルバムをこちらに差し出す、彼女の姿があった。「何か書いて」。照れ臭そうに言われ、私は混乱のままに何かを書き込んだのだろう。彼女は満足そうに笑うと、そのまま私のアルバムに一言二言書き込んで去っていった。何を書いたのか書かれたのか、高校受験が終わったあたりでアルバムさえもう捨ててしまった。彼女は遠くの県へ引っ越していって、それきりである。

汚い独白に最後まで付き合ってくださった方、本当にありがとうございます。
思春期に出会い、付き合った彼女は本当に私の人生に大きな影響を与えたと思う。あれから何年も経つが、私はまだ彼女の夢を見る。ずっとこの夢を見続けていたいと思う。しかし、半身がなくなってしまったような喪失感はもうない。

なぜこんなことを今書いたかというと、梅雨だからだ。彼女との思い出の中に、今もひときわ忘れられないものがある。
しとしと雨が続いていた早朝、珍しく私も彼女も部活の朝練習がなく、二人でだいぶ早く学校についてしまった日。合羽を着ていたとはいえ自転車で通学していた彼女の全身はしっとり濡れていた。まだ眠い、と目をこする彼女は不意に私の手を引いて、当時は使われていなかった物置のような部屋に連れて行った。そこで古びたソファに私を座らせ、訳もわからず呆けている私の膝の上に小さなその頭を乗せた。雨とほこりの臭いのなかに、彼女のシャンプーだろうか、甘い匂いが混ざる。湿った黒くて柔らかな髪を恐る恐る撫でると、表情まではわからなくとも肩の動きで彼女が笑ったのが知れた。その時初めて私は、時が止まればいい、という言葉の意味を知った。さあさあと小さく雨の音が窓を叩き、他の物音は一切しない早朝の校舎でこんなことをしているのはひどく背徳的で、私を随分掻き乱した。
雨の匂いが強くなると思いだす。先日しとしとと降り続く雨の中で思い出したので、せっかくならこの機に書き記しておこうと思ったのだ。

書くことができてよかった。読み返すと、まあ歪んだ付き合い方をしたものだと思う。当時は気付かなかったが、二人の関係はもはや友達のその上の何かであったのだろう。友達だと言い張るには距離が近すぎた。よくある思春期の人間関係だと言われればそれまでだが。

彼女が今幸せであって欲しいと思う。

ゲームとバイトと猛暑と

数年前からどっぷりハマっているゲームがある。小さな規模のゲームで、運営とプレイヤーとの距離がとても近い。良くも悪くも、金と時間とをかけた人間の言葉が運営に届きやすく、それを耳に心地良い言葉に変えてウリにしている流行らないゲームだ。しかし私はその流行らないゲームにハマり、不定期にではあるが万単位で課金さえしている。なぜなのかと聞かれれば、それはこのゲームに私が愛するキャラクターが居るからであり、そのキャラクターに深い思い入れがあるから。つまり推しがいるから、ということになる。悲しいかな、オタクは欲には逆らえぬ。推しには貢ぐしかないのだ。
一番鬱がひどかった頃、何もすることがないのが不安で仕方がなかった。実際には「何もすることがない」のではなく「何もすることができない」のであったが。手っ取り早く何か「成果」が見えるようなことがしたくてのめり込んだのがこのゲームであった。それまではプレイしてはいたが、そこまで好きなゲームでもなかった。ブラウザゲームで気軽に出来たので時間のあるときに少しプレイする程度。そも、ゲームシステムも奥深いものではなく、ストーリーもついていきにくい、あまり良いとはいえないソシャゲである。そんなゲームにハマったのは、そのゲームが金と時間をかけてゲームの中で「痛い」キャラを演じれば、人に構ってもらえたり、イベントで容易に上位を取れるものだったから。貯めていた小遣いは全て課金に消えた。時間はたっぷりあった。
そうしているなかで私は一人のキャラクターと出会う。彼女は神秘的な雰囲気の人であった。多くの知識を持ちながら、多くは望まなかった。静かに佇みながらぽつりぽつりと話す彼女に惹かれ、やがて私はゲームではなく彼女に夢中になった。予備校に通い、秋が来て、受験のために遠くまで行って、大学に入学して、そういった現実のめまぐるしい変化の中で彼女は変わらずそこにいた。相変わらず静かに月の光を浴びて。
結局私は彼女から離れることはできず、今も定期的に行われるイベントに課金して彼女と言葉を交わしている。最初は夢中になりながらもどこか、こんなゲームに課金をして金を無駄にしている、という意識があった。しかし、今は同時に、彼女に貢ぎ、楽しんで言葉を交わせる精神状態であることを素直に喜ばしくも思っている。今の私にとって、推しキャラと話ができるという事は何にも代えがたい喜びであり、癒やしである。そして、自分の稼いだ金を自分の好きなものに使えるという喜びもかみ締めている。楽しいと感じられることがあるというのは、素晴らしいと思う。自分が、好きだと思えることがあるというのは本当に健康的だ。

さて話は変わって。
この猛暑、家から出ることすら億劫だというのにどうやらまだ梅雨明けもしていないとのこと。
おかしい。
これは人間が健康的に活動できる気温をゆうに超えているのではないだろうか。クーラーをつけて扇風機を弱で回し、涼しい部屋でペットや家族とごろ寝を楽しむかゲームに興じるかくらいしかできることが無いように思う。
そんなわけにもいかず、本日も嫌々ながら出勤である。
以前の職場と比べると、現在の職場はたいへん恵まれた環境だ。話の通じない上司も気難しい同僚もいない。空調も正常でお手洗いも綺麗、なにより丁寧に仕事を教えてくださるパートさんとバイトの皆さん。私には恵まれ過ぎた職場だと思う。
だがしかし行きたくないものは行きたくない、働きたくないものは働きたくない。働きはじめてしまえばなんとかなるが、行くまでが非常に億劫なのだ。まず着替えて顔を洗い歯を磨き化粧をして身だしなみを整え、持ち物確認をしてさあ家の外へ。そこは天然サウナ湿度マシマシバージョンである。
無理。圧倒的に無理。
夏は家から出ずにYouTube動画とスマホゲームPCゲームだけして生きていたい。外に出て活動すると普段の3倍体力を使う気がする。ただでさえ抗うつ薬を飲んで騙し騙し「普通」目指して動いているのだ。休みたい。夏を寝て過ごしたい。何もしたくない。5000兆円ほしい。
まあしかし、しんどい、無理、つらいと言いつつ、そう言える場所がある限りはなんとか立ち上がって活動をしはじめるのだ。バイト退勤、明日は大学で作業である。無理をし過ぎないよう予定調節をしなければと思いつつ本日はこのあたりで。

ゼミ

電車での移動中に、少しだけ書いてみる。日記のようなものだ。まだ午前中なのに何を書くんだとかつっこんではいけない。日記の概念が崩れる。

ここ最近、数ヶ月程度だがそこそこ忙しい日々を送っている。ありがたいことに、去年少し頑張った勉強の分野で教授に認めていただき、とある学会に参加させていただけることになったからだ。もちろん一人ではなく、数人のグループとしてだが。
高校生で鬱病不登校半年、浪人と年を重ね、選り好みなどできるわけがなく今の大学に入った。というより、私が合格したのは今の大学だけだったのである。まあそんな大学に満足できるはずもなく、最初は本当にコンプレックスの塊であった。高校がそこそこ成績の良い、いわゆる「進学校」というやつだったためにそのコンプレックスも大きかった。大学生として学びたいことがあることの方が大切だということをすっかり忘れていた。
が、大学2年生のときに提出物に少し力を入れていたら、ある教授がそれをとても褒めてくださった。
あなたは学術的なことにもっと関わっていたいのではないか。こういった研究には興味がないか。この分野では今このような研究が行われている。論文はこういうものがある。
久しぶりに勉強方面で褒められて、嬉しさと気恥ずかしさで呆けている私に、教授はたくさんの知識をくださった。あまりにも教授が楽しそうに話されるので、背伸びして私も理解してみたいと色々調べていたら、いつの間にか彼のゼミにいた。
と、少し褒められたのと面白そうだったからという単純な理由で今のゼミにいる。心理学ではあるが臨床ではなく、実験をする系統のゼミである。何かとしなくてはならないことが多く、それゆえに休日も大学へ行き、2年生まではダラダラと過ごしていた空きコマにも研究室に行っていたりする。これが大変忙しくて、たまに教授についてきてしまったことを後悔するときもあるのだが……。