herako’s diary

私のための私による私のブログ。整理したいことや、吐き出したいことを練り練りして書いてます。

今週のお題「読書の秋」

なるほど今週のお題。そんなものもあったなと思い立って、読書という文字を目にして、これならば何かしら書けるのではないかと文字を打ち込んでいる。

小学校、中学校、高校と、私の唯一の趣味は読書だった。
幼稚園に通っている時分から、親に図書館に連れて行かれ絵本を読み聞かせてもらっていた影響も大きかったのだろう。気付けば私は立派な活字中毒のようになっていて、しかしそんな自分が好きだった。
気になった本は何でも手にとって読んでみたし、暇だからと図書館の本棚の端から端まですべてを読みきったこともある。ファンタジーから伝記、図鑑に至るまでなんでも読んだ。
書店に行けば、まだ理解もできない大人向けのコーナーまで足を運んでわくわくしたものだ。
きっと大きくなればここにある全ての本の内容を理解できるようになるのだと信じて疑わなかった。たとえ難解な専門書だと言われても、いずれ理解できるはずと思っていた。

私にとって、本を読むことは著者の頭の中を覗くこととほぼ同義だ。
彼が、もしくは彼女が考えて、練ったものを紙の上に吐き出して整頓して、それは例えば挿絵だったり、表紙だったり装丁だったりに支えられて読者のもとへと渡る。一人の人間の(複数の場合もあるが)頭の中をゆっくりとページに合わせてあじわうことは、とても贅沢で蕩けるような恍惚を産む。
そんな時間を一人でゆっくり楽しむことが私はとても好きだ。時間をかけて作品の中へと入っていけば、そこは朝日の昇る前、草の上に美しく水滴が光る静かな森の中であったり、夕暮れ時のビルの路地裏、ネズミが数匹素早く駆け回るゴミ置き場だったりした。
ページをめくるたびに減っていく残りの世界に寂しさを覚えたり、読み終えたあとの余韻にしばらく浸っていたり、そういう意味でも読書は私の心をとても揺さぶった。そうして読書をして、様々な世界に足を踏み入れたり踏み入れなかったり。たくさんの本を読んで、気に入った本は手に入れた。きっと私はこのまま、どんなに時間に追われたとしても本から遠ざかることはない……と、思っていたのだが。
つい最近まで数年間、私は読書というものからすっかり遠ざかっていた。

理由は簡単だ。鬱病になって、集中力も理解力もガクッと落ちた。
本一冊どころか、新聞の一面だって読み終えることが出来なくなってしまった。
もちろん、急に読めなくなったわけではない。徐々に徐々に、じわじわと。はじめは読書のスピードが遅くなった。気付けば同じ箇所を何度も読んでいた。読んだはずの箇所の内容が思い出せない。文字の上を目が滑る。読んでいるはずなのに内容が理解できない。うんぬん。
唯一の趣味だったので、出来なくなったことに気が付いたときは絶望した。
片っ端から持っている本を読んでみたが、何かに遮られているかのように内容が理解できずに泣いたものだ。あれはつらかった。しかしここではその時期のことはこれ以上語るまい。思い出すことも嫌だ。そのうちまた、吐き出したくなるときもあるだろう。

今、随分回復して私はまた活字を追うことができるようになった。
暇を見つけては漫画を読んでいる。漫画は本ではないって? 難しい話はしないでくれ。小説や雑誌ももちろん読む。しかしよほど気になったものか、序盤で気に入ったものか、または具合がいいときにしか最後まで読み進められない。そんなレベルだ。以前のように興味があろうがなかろうが、ひたすら活字に触れていたいというふうではなくなった。そのことについて、少しばかり寂しいとは思う。が、まあ今はこの程度でもいいかなとも思っている。
病気だけではない、様々な経験をした結果、手芸やゲーム、喫茶店巡りなど他に趣味もできた。色々としたいことも増えたので、そんなに悲観的でもないというわけだ。

つらつらと思ったことを書いてみたが、やはり読書はいいものだ。こうして書いていて、何か本を読みたくなった。しかし実はそんなことをしている場合ではないのだ。もっと言うとこんなふうに記事を書いている場合でもないのだ。私には提出期限が間近の卒業論文が待っている。気晴らしにと書き始めたら存外時間をくってしまった。目を逸らしていた現実がこちらを睨んでいる。
……明日も、いい日になるといい。