herako’s diary

私のための私による私のブログ。整理したいことや、吐き出したいことを練り練りして書いてます。

1027

24回目の誕生日を迎えた。
前の晩に実家に戻ってきた私は、一晩寝て、起きて、母親が焼いてくれたケーキとスープを飲んだ。そして、またひとり暮らしの家へと戻ってきた。

20を前に死ぬだろうと思っていたが、蓋を開けてみればそんなことはなく。
普通の人のように就職をして、普通の人のように日々をやり過ごしている。
一人暮らす部屋は、自由と孤独で満たされていて、今は少し息苦しい。初めて得た自由は、重くて、私はまだその重さに慣れることができないままでいる。やってみたいことはあれもこれもあったはずなのに、こうしていざお前は自由だと放り出されてみると、とたんに何をしたらいいのか分からなくなってしまう。

会社に勤めるにしても、なかなか自分のペースを掴むことができずにいる。
気張りすぎてヘトヘトになったり、体力がないのがもどかしい。朝起きて、会社に行って一日をなんとか過ごすだけで精一杯で、帰宅したらもう何もできない。それでも最近は、洗濯物を溜めることがなくなってきただけマシだと思う。
気難しい上司や、やたらと他人の結婚に口を出したがる先輩、そういう年上の人たちの発言を聞き流すことのできない自分が少し嫌になる。

やたらと結婚の話があちこちでされるので、どうしてかしらと思っていたがなるほどそういう年齢らしい。
24にもなれば、恋人がいて、休日は一緒に過ごして、未来図をなんとなく描いて、そういうものらしい。
男性全般に苦手意識のある私だが、最近どうにも一人でいるのが寂しくて仕方がない。誰かにそばにいてほしいと感じる瞬間が、日に日に増えていく。
これはどういうことだろうかと思う。
私は確かに他人に依存しやすい性質だと自覚してはいたが、別に一人で過ごすことになんの抵抗もない人間でもあったはずだった。一人で外食もできるし、旅行にも行けるし、休日も一人で過ごすことが好きだったはずだ。だが、今はどうだ。食事をするときには誰かと味わいたいと思うし、旅行に行けば隣の誰かと気持ちを共有したいと思うし、休日に一人でいると気が触れそうになる。どういった心境の変化があってこうなってしまったのだろう。
以前一度だけ、家に友人を数日泊めたことがあった。そのときに、他人と同じ空間で生活するのは気疲れしてしまう、私にはできないと思った。私は一生一人で暮らしていくのだと思った。だから働いて、一人でも立っていける基盤を用意するのだと思っていた。
今は、あのときの気疲れさえも恋しく思う。

一人で生きていくということが、もしも、こんな孤独と一生付き合っていくことだとしたら、私にはこの先一人でいられる自信がない。
仲睦まじい老夫婦を、休日の街で見かけた。
私の周りにはそんなふうに、仲良く寄り添う男女は居なかった。両親も、祖父母もそうではなかった。だから、そういう光景を見ると違和感とともに、強烈な憧れを抱く。もし、あんなふうに歳をとっても寄り添って、笑い合えるような人と一緒になれたなら、と想像してしまう。子供はいるのだろうか。どんな家に住んで、どんな会話をするのだろう。意見を違えたときにはどうやってすり合わせるのだろうか、片方が困ったときにはもう片方が力を貸してやるのだろうか。
羨ましいと思う。たとえその裏にどんな事情があったとしても、羨ましいと。

この先の、自分の人生について考えたときに、これまでは私の隣には誰もいない光景を思い描いてきたが。そうではない未来についても、きっと考えるべきなのだろうと思う。
男であっても女であっても、誰かを想って共に生きていく道は私にでも歩めるものなのだろうか。ずぼらで、容姿にも自信がなくて、一日を生き延びるだけで精一杯の人間にもできるものだろうか。
そんなことを最近はつらつらと考えていた。

手にした自由の重さと、これから生きていく人生の長さを想像して潰れそうになりながら、生きるということはこんなにも生々しかっただろうかと思いながら、息をする。
そんな24歳の夜。おめでとう、私。