妄想のはなし

何を書こうかとぼんやり考え、別に何も書く事は無いと手を下ろす。そんなことをしていたら、前回の記事からもうひと月も経つらしい。こうして何かを書き記すという行為は意外に疲れるものであり、取り掛かるのには勇気がいるものなのだ。仕方がない。ということにして、自分を許してやることにしよう。

今回は妄想について書いてみたいと思う。
妄想、妄想と聞いて何を思い浮かべるだろう。これは、もとは精神医学の用語らしい。ただ、日常的に使うときの意味はそう、例えばアニメや漫画などの二次創作、そのアイデアとか。いかがわしい空想だとか。そんな意味で使われることが多い気がする。
私はこの妄想というのが大好きで、小さい頃から非常に多くの冒険を繰り広げてきた。もちろん、その妄想の中で。あるときは名も知らぬ西洋の街で勇者の一行に加わったし、あるときは東洋の路地裏で娼婦になった。それらの妄想は大抵、なんの役にも立たないと思われがちだが、この妄想力ともいえるものに助けられることも何度かあったので今回はそれに言及してみたい。

先日、ツイッターにて私の楽しんでいるゲームが、ゲームシナリオのことで炎上している場面に出くわした。たしかに話題になったそのシナリオは、後半になるにつれて前半の伏線を回収しきれずに駆け足で進んでしまった、そんなようにも感じられた。そう感じた人が多かったのも事実なのだろう。そんなことを思いながらたくさんの人のツイートを見ている中で、「このシナリオは、私の解釈と違う。ショックだ、もうやめる」。そんな人をちらほら見かけた。
その時、私は言いしれぬ寂しさを感じた。
その人たちにとっては私の意見など理解したくないかもしれないが、どうしても寂しいと思ってしまった。だって、私達には妄想するという手段があるのに、それまで楽しんできたものを、1つの解釈の違いとやらで捨ててしまうのはあまりに悲しくはないだろうか。これは私がなかなかモノを捨てられない性分なのも関係しているのかもしれない。けれど、少し自分の意図に沿わないシナリオがあったからと、それまで楽しんできたコンテンツから離れてしまうのは、やはり、なんとも寂しいように思えるのだ。

実は以前、私にも同じ経験がある。私の場合は小説であった。シリーズ物の小説を数年かけて待っては読み、待っては読み、そして辿り着いた結末は全く私の意図しないものであった。私が好きだった登場人物は皆悲惨に命を落とし、当然こうなるだろうと想像していたシナリオはことごとく外れ、全く的はずれな…この場合、的外れであったのは私だが…そんな終わりが無慈悲に訪れてしまった。ページをめくるたびに暗澹とした思いに包まれていくのを感じながら、それでも一縷の望みをかけて最後まで読み切った私は、しばらく立ち直ることができなかった。あんまりだと思った。作者は人でなしだとさえ思った。しかし…しかし、それから一週間ほど経った頃、私はまたその小説を最初から最後まで読み直し…これは、これは当然ではあるが…これは作者のための作者の世界を表現したものであるとやっと気付いた。
当たり前のことであった。なぜなら、その小説を書いているのは私ではないのだから。
当然それは作者の世界だ。作者の頭の中に広がり、無限に今も広がり続け、もしくは次第に収束していくであろう彼または彼女の世界なのだ。私達はその世界の一部に、文字や絵や音楽などを通じて触れているだけに過ぎない。そう気付いたとき、もう私は作者を人でなしとは思わなかった。彼女は自分の頭の中にある世界を描ききったのだ。たとえその過程で、私の思っていたものと違うものがたくさん生まれたとしても。そして、たとえ私が思っていたものと違うものがたくさん生まれたとしても、私がその小説の登場人物を、世界を、雰囲気を、気に入って楽しんだということは変えようのない事実なのだ!

今、SNSが発達し、情報は光の速さであちこちを飛び交い、その中で人々は自分の求める、最も正確性の高い情報を選び取って生活していかなくてはならない。そんな中、多くの人々からの反響を得ている情報というのは目に入ってきやすいだろう。一人が「これは私の想像と違う!」と言い出せば、我も我もと、自分では言葉にできなかったもやもやを言葉にしてもらったとでもいうかのようにその発言は力を増していく。多くの人の同意の中で熱狂に浸るのは楽しいだろう。冷えた指先で小さな箱を叩けば熱に酔うことができるのだから。しかし、少しだけ待ってほしい。おそらく、その他人の「私の想像と違う」は、あなたの「私の想像と違う」とも違う。作者の描いた世界はあなたの想像とも違えば名も知らぬ誰かの想像した世界とも違うだろうが、あなたは少なくとも、作者の描いた世界の何かが気に入ったからこそ、そこまでその世界を楽しんだのではないだろうか。本当にその「想像と違う」という内容は、あなたが好きだった世界を後にするのに足るようなものなのだろうか。

そこで、ようやく。妄想の出番であろう。
この妄想、ハマってしまうととても楽しい。非常に面白い。絵が描けなくても、文章が書けなくてもできる。ただ頭があれば。
やり方は簡単だ。好きな世界観の中に、オリジナルの人物でも、そこにすでに登場した人物でも誰でもいい、動物でも植物でもいい、建物のような無機物でも構わない…それらを落とし込んで、それを自分のやりたいように動かすだけ。つまりは、人形遊びのようなものだ。二次創作と同じようなものだが、自分の頭の中だけで完結するのでいつでもどこでも簡単に好きな世界に浸ることができる。もし自分のお気に入りの登場人物が原作の中でとっくに死んでいたとしても、なんとでも理由をつけて街のどこかに居座らせてしまえばいい。思い通りの相手とくっつかなかった登場人物も、頭の中では誰と交際させようと自由だ。こんなことを言うと原作を大事にしろとかいう文句が飛んできそうだが、そこは仕方がない。人の頭の中までは誰も入り込めないのだから。それに、原作を大事に思っているからこそ、その妄想を頭の中だけでとどめておいているのだという言い訳もできる。なんにせよ、作者の頭の中から広がった世界をもとに、自分の中で新たな世界が広がったというだけのことだ。ちなみに、世界的に有名な作家たちの間では、自分の作品からインスピレーションを得たという他の作家の設定や世界観を気に入り、自分の作品にまた取り入れ、それをまた他の作家が気に入って取り入れ…というエピソードがいくつもある。それくらい楽しいものなのだ、これが。

今まで様々な創作物に触れてきたが、一つとして私の想像通りであったものはなかった。しかし、それらに触れて、自分の中で新しい世界を広げていくと、ふいに今度は原作に立ち返ってみたくなるときがある。そうすると、今度はそれまで見えていなかった素晴らしい点に改めて気付くことができたり、逆にもっと自分の想像と違ったというものを見つけたりする。それがまた、妄想の楽しいところだと思う。
好きなものから思い切って離れてしまう、ぽいとすぐに捨ててしまうのではなく、別の楽しみ方を試してから離れるか決めるのも悪くないのではないかと思う。それから、二次創作などに「想像と違う!」と声を上げて攻撃的になる人のことは私は全く理解できない。他人が自身で広げた広大な世界を前に、自分が広げた世界を比べて違うからと攻撃的になるのはあまりに愚かだ。そういう人は、自分の世界から出てこない方が双方にとっても良いと思う。