死にたいと言うこと

気持ちの浮き沈みが激しい。季節の変わり目は大抵そうなるが、何度経験しても嫌なものは嫌である。不愉快で、自分にはなんの落ち度もない、質の悪い病気に後ろから刺され続けているような時間。非常に鬱々とした気分だが、不思議と今日は言いたいことがあるので記事を書くことにした。普段は「死にたい」と思うほど落ち込んだら言葉も出てこないが、不思議なこともあるものだ。

死にたいと思う。ただひたすらにそう思っている時間がある。体全体がだるく、重く、何をするのにも体が鉛のように動かない。数歩歩くだけで頭がしびれ、座れば立ち上がれなくなり、楽しいはずのものが楽しくない。大好きな友人の声も不愉快で、視覚情報をうまく理解できない。周りの状況がわからずに不安でたまらない。攻撃的な他人の言動や、自分の無力感だけを増幅して感じる。
「死にたい」という気持ちの裏に何があるのか、こうして並べ立ててみたところで何も解決しない。結局、今自分が死にたいと感じているという事実があるだけだ。ただ、私は今までの経験から、この感情が永遠に続くわけではないということを知っている。病気に楽しみを一時的に奪われてはいるが、そのうちにまた取り返すことができる。そう自分に言い聞かせて生きる。

死にたいとツイッターで呟くと、非難されることがしばしばある。「本当に死にたいなら死ね」などの、匿名性を利用した攻撃的な返答を見かけることもある。もちろん、周囲からの注目を目当てに自分の命を利用する人間もいるのかもしれない。それはそれでしかるべき処置が必要だろうが、しかしたいていその「死にたい」は視線集めではないのではないだろうか。
体が動かず、楽しみがなくなり、暗い考えばかりが浮かぶ。その状態で、私は死にたいと言う。確かに死んでしまいたい。心も体も苦しいし、死んだほうが楽だと考える。が、それは今すぐ死ぬことと同義ではない。当然だが、「死にたい」と言うことと、今すぐに自殺してみせることは違うことなのだ。今は死にたい。しかし遠くない未来、私はまた死にたくなくなる。楽しいことを楽しいと感じられるようになり、友人と楽しく会話できるようになる。理解しているその事が、今の「死にたい」私を生かしている。だから私は死にたいけれどもう少し生きるだろうし、うまくいけばまた楽しみを見つけて生きられるようになる。
「死にたい」と言う人にはまだ何か、彼または彼女をこの世につなぎとめてくれるものがあるのだ。それはポジティブなものだけではないかもしれない。しかし、死にたいと言う人がまだそこで生きているということを私はただ事実として受け止めたい。その場からいなくなりたい、楽になりたいと思いながら生きている人に、追い打ちをかける人間にはなりたくない。「死にたいなら死ね」とは、病気だったり、環境だったり、そういうものに後ろからも前からも刺されて切られて傷だらけになった人間に、とどめを刺す言葉だ。攻撃的な言葉が、なんとかその人間をこの世につなぎとめていたものを上回る威力をもって放たれたとき、簡単に人は死ぬ。

「死にたい」と言うとき、私は場所と人を選ぶ。この言葉はあまりにも強いインパクトを持つため、日々の生活の中で口に出すと後々大変面倒なことになってしまう。死にたいのだから、先のことは考えられないだろうだって? そうではない。そうではないのだ、だからこの病気はたちが悪い。確かにあとのことを何も考えられないくらいに思考が働かないときもある。が、多くの場合はあとのことまで想像できてしまう。悪い方向に。話がそれた。
だから大抵はツイッターに書き込む。どこかに吐き出して、少しでも楽になりたいが現実世界では到底吐き出せない言葉として。ツイッターという場に自分の中から吐き出す事で少しだけ楽になり、それが私をこの世につなぎとめてくれることの一つだったりもする。死にたいけれどまだ生きていることを確認するためにも。しばらくして落ち着いて、自分が書き込んだことを見直すとそれが自信にもなる。あの時の「死にたい」気分を過ぎて、たしかに私は今楽しく生きている、と。これは推測でしかないのだが、そういう人は他にもいるのではないだろうか。死にたいという気持ちを吐き出したくても場所がなくて、なんとか吐き出しても良さそうな場所を見つけて吐露している人が。

私が言えることではないかもしれないが、どうか「死にたい」だけでなく「つらい」「苦しい」と言っている人を攻撃しないでほしい。助けろとは言わないから、何も言わずに放っておいてほしい。そういう人を救うのは医者やその他諸々の専門家だから、助けようとしなくてもいい。逆に、知識がない状態で助けようとすると共倒れになることも多い。かといって、「どうせ今度も死なないだろう」「そんなにつらくないだろう」と追い打ちをかけないでほしい。今はつらいときだし、死にたいときなのだ。自分でいつかはまた立ち上がるし、立ち上がれなくても収まるところに収まる。

私を含め、今「死にたい」人が少しでも楽になりますように。さあ、帰って寝てしまおう。